このページの要点
- 相殺は、双方が弁済期にある同種の債権を持ち合うときに、一方から相手方への意思表示でする。意思表示に条件や期限は付けられず、効力は相殺できる状態になった時にさかのぼる(民法505条・506条)。
- 給与からの差引きは、賃金の全額払の原則と前借金相殺の禁止が関わる。外注先への報酬は、フリーランス法の報酬の減額の禁止との関係を確かめる(労働基準法24条1項・17条、フリーランス法5条1項2号)。
- 差押えや債権の譲渡が先にあった場合、保証人や担保がある場合、相殺禁止の定めがある場合は、相殺の可否や残額の扱いが変わる(民法469条・505条2項・511条)。
- 通知書には二つの債権を金額・発生原因・支払期日で特定し、合意書には基準日・充当の順序・残額の支払方法・清算の範囲を書く。
結論:相殺は「差し引けば済む」ものではなく、要件・通知・合意書の三つで確かめる
お金を貸している相手に、こちらも代金や報酬を払う立場にあるとき、「払うお金から貸金を引いて渡せば早い」と考えるのは自然です。この「引く」ことを、法律の言葉で相殺(そうさい)といいます。お互いに同じ種類(ここではお金)の債権を持ち合っているときに、重なる額だけを差し引きで消す仕組みで、民法505条1項が基本の要件を定めています。ただし、現場で「引いて渡した」ことが、相殺として有効に成り立っているかどうかは別の問題です。通知の出し方、差し引く相手の債権の種類、保証人や第三者の存在によって、結論が変わります。
このページは、民法などの条文にもとづく一般的な整理です。貸した側(貸主)と借りた側(借主)のどちらにも、相手に対して払うお金があるという場面を中心に、実務でよく見られる条項の型、誤りやすい書き方と直し方、確認しておきたい事項を並べます。貸付の基本は知人・個人間の借用書と金銭消費貸借契約書、証拠の残し方はお金を貸した証拠の残し方で扱っています。ここでは「差し引く」ことに話を絞ります。
結論を先に並べます。
- 相殺は、要件がそろったうえで、当事者の一方から相手方への意思表示によってする。意思表示に条件や期限は付けられない(民法506条1項)。「期日までに払わなければ相殺する」という通知は、相殺そのものの通知にならない。
- 相殺の効力は、双方の債権が相殺できる状態になった時にさかのぼる(民法506条2項)。利息や遅延損害金がいつから止まるかに関わるので、通知書にも合意書にも日付を書く。
- 差し引く相手の債権が給与か、外注先への報酬か、取引先への代金かで、制限が違う。給与は労働基準法24条1項・17条が関わり、貸主の判断だけでは決められない。
- 契約書に「いつでも相殺できる」と書いてあっても、損害額を一方が決められる書き方や、争いのある債権まで含む書き方は、使う場面で争いになりやすい。
- 相殺の合意書は、法律の要件にない組み合わせ(弁済期が来ていない債権、三者の債権)をまとめて清算するとき、差し引き後の残額を確定させるときに役立つ。
- 保証人、担保、債権の譲渡、差押えが絡むときは、相殺の前に確かめる。相殺できるかどうかが変わる。
相殺の仕組み:向かい合う二つの債権と、「どちらから出すか」で変わる条件
相殺を考えるときは、まず二つの債権に名前を付けます。相殺する側が持っている債権を自働債権、相殺される側が持っている債権(相殺する側から見れば、自分が相手に負う債務)を受働債権と呼びます。貸主が借主に貸金債権を持ち、同時に借主に代金や報酬を払う立場にあるなら、貸主から相殺するときの自働債権は貸金債権、受働債権は代金・報酬の支払債務です。
民法505条1項が定める要件は、おおまかに次のとおりです。二人が互いに債務を負っていること、その目的が同種であること(お金とお金)、双方の債務が弁済期にあること、そして、債務の性質が相殺を許さないものでないことです。弁済期にあることを、実務では「相殺適状(そうさいてきじょう)」といいます。
貸主から出す場合と、借主から出す場合で、期限の見方が違う
「双方の弁済期が来ていること」は、条文の文言だけを見ると両方に期限が必要に見えます。一般には、相殺する側は自分の債権(自働債権)の弁済期が来ていることが必要で、相殺される側の債務(受働債権)の期限は、相殺する側が自分の期限の利益を放棄すれば足りると説明されます。期限の利益は放棄でき、相手方の利益を害することはできないとされているためです(民法136条2項)。この考え方で整理すると、次のようになります。
貸主から相殺する場合と、借主から相殺する場合
| 比べる点 | 貸主から相殺する | 借主から相殺する |
|---|---|---|
| 自働債権(相殺する側の債権) | 貸主の貸金債権 | 借主の代金・報酬の債権 |
| 受働債権(相殺される側の債権) | 貸主が借主に払う代金・報酬の債務 | 借主が貸主に返す貸金の返済債務 |
| 期限の見方 | 貸金の弁済期が来ていることが必要。代金・報酬の支払期日が先でも、貸主が自分の期限の利益を放棄すれば相殺できると説明される。 | 代金・報酬の支払期日が来ていることが必要。貸金の期限が先でも、借主はいつでも返すことができる(民法591条2項)ので、期限の利益を放棄して相殺できると説明される。 |
| 通知の宛先 | 借主 | 貸主 |
| 起きやすい誤り | 貸金の額に争いがあるのに、先に相殺して代金・報酬を止める。 | 期限前に返すと、貸主が損害を受けたとして賠償を請求されることがある(民法591条3項)。利息の取り決めを確かめずに通知する。 |
「放棄すれば足りる」という整理は一般的な説明であり、個別の事案で相殺が認められるかは、契約の定めと事実関係によって決まります。
相殺の効力は、相殺できる状態になった時にさかのぼる
相殺の意思表示は、双方の債務が互いに相殺に適するようになった時にさかのぼって効力を生じます(民法506条2項)。通知が届いた日から効力が出るわけではありません。たとえば、貸金に約定の遅延損害金が付いていて、代金債務の支払期日が来た日(相殺適状の日)より後になって対当額の相殺通知を出したとします。相殺された部分には、その適状の日以降の遅延損害金は生じなかったことになり、残った部分にだけ遅延損害金が続きます。
これは、貸主が通知を出す日までに積み上がったと考えていた遅延損害金を、計算し直さなければならない場合があるということでもあります。通知書や合意書に、元本・利息・遅延損害金の内訳と、どの日を基準にするかを書いておくのは、そのためです。貸金に元本のほか利息や費用がある場合に、どの部分から消えるかは、合意がなければ民法が補う順序があります(民法512条2項・3項、489条)。補充の規定に任せず、合意書に順序を書いておくほうが、後の計算がぶれません。利息・遅延損害金の上限の考え方は個人間の貸付の利息と遅延損害金の上限で扱っています。
毎月の報酬から貸金を差し引く:数字で見る
継続的に報酬を払っている外注先に貸金が残っている場合に、毎月の報酬から返済分を差し引く形にすることがあります。次の例は、貸金の残りが80万円、毎月の報酬が30万円、利息は考えない単純な場合です。
毎月の報酬から貸金の残りを差し引く計算例(単位:万円)
| 月 | 報酬(受働債権) | 相殺する額 | 貸金の残り | 現金で払う額 |
|---|---|---|---|---|
| 貸付時点 | — | — | 80 | — |
| 1か月目 | 30 | 30 | 50 | 0 |
| 2か月目 | 30 | 30 | 20 | 0 |
| 3か月目 | 30 | 20 | 0 | 10 |
| 合計 | 90 | 80 | — | 10 |
3か月目は、貸金の残り20万円までしか相殺できないので、報酬30万円のうち10万円を現金で払う。毎月、相殺する額と貸金の残りを借主に伝えておくと、記録が合意書の代わりになる。
貸金に向かい合う債権は何か:代金、報酬、給与、返金で注意点が違う
貸主が借主に対して払うお金は、取引の関係によって種類が異なります。民法の相殺の要件は同じでも、法律上の扱いはその種類によって変わります。よく見られる組み合わせを、表に並べます。
貸金と向かい合う債権の種類ごとの整理
| 向かい合う債権 | 考えること | 書面での置き方 |
|---|---|---|
| 取引先への代金(売掛金・買掛金) | 商品やサービスの代金に、品質や納期をめぐる争いが残っていないか。争いのある債権を相殺の対象にすると、相手の代金債権の額そのものが争いになる。 | 貸金と代金の双方を、金額・発生原因・支払期日で特定する。争いのない部分に限る。 |
| 外注先・業務委託先への報酬 | 個人で従業員を使わない相手など(特定受託事業者)への業務委託は、フリーランス法の対象になる。1か月以上の業務委託では、特定業務委託事業者は責めに帰すべき事由がないのに報酬の額を減ずることができない(同法5条1項2号)。貸金の差引きが「減ずること」にあたるかは、運用の指針で確かめる必要がある。 | 貸金は報酬とは別の契約書にし、返済は振込を原則にする。差し引くなら、相手の書面による同意と明細を残す。 |
| 従業員の給与 | 賃金は、通貨で、直接、全額を払う原則がある(労働基準法24条1項)。前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金の相殺は禁じられている(同法17条)。貸付けの契約書の定めだけでは決められない。 | 返済は口座への振込を基本にする。給与からの控除は、労働関係の法令に従う別の手続として切り分ける。 |
| 役員の報酬・賞与 | 役員でも、実態が労働者であれば賃金の規律が及ぶ。 | 貸付と報酬の支払を帳簿で別々に残し、差し引くときは合意書で内訳を確定する。会社と代表者・役員のお金の貸し借りも参照。 |
| 貸主が負う損害賠償の債務 | 悪意による不法行為や、人の生命・身体の侵害による損害賠償の債務は、債務者から相殺を対抗できない(民法509条)。貸主がそうした債務を負うなら、貸金で消すことはできない。 | 紛争の解決条項と貸金の清算は混ぜず、別の合意として書く。 |
表は条文の整理です。個別の当てはめは、契約の内容と事実関係によって決まります。
給与から貸金を差し引けるか
従業員に貸した金額を、給与から毎月差し引いて返してもらいたい、という場面は多くあります。しかし、賃金には全額払の原則があります。使用者は、法令に別段の定めがあるか、労働者の過半数で組織する労働組合(それがなければ過半数を代表する者)との書面による協定がある場合に限り、賃金の一部を控除して払うことができます(労働基準法24条1項ただし書)。さらに、前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金を相殺することは禁じられています(同法17条)。
貸付けの契約書に「給与から控除する」と書くだけでは足りません。控除が許されるか、許されるとしてどのような手続が要るかは、労働関係の法令の問題です。貸付けの書面では、返済を口座への振込とし、給与の控除は別の手続に切り分けるのが無難です。会社が従業員や取引先に貸すときの貸金業法との関係は会社が従業員・取引先・知人にお金を貸すときにまとめています。
もう一つ、差押えが禁じられた債権の問題があります。給料、賃金、賞与などの債権は、支払期に受けるべき給付の四分の三に相当する部分(政令で定める額の限度があります)は、差し押さえてはなりません(民事執行法152条1項2号)。債権が差押えを禁じたものであるときは、債務者は相殺を債権者に対抗できません(民法510条)。給与のうち差押えが禁じられた部分は、使用者から相殺で消すことができない、ということです。
相殺できないとき・制限されるとき:通知の前に確かめる場面
相殺の要件を満たしているように見えても、条文や契約によって制限されている場面があります。相殺通知を出す前に、次の場面に当てはまらないかを確認します。
相殺の制限に関わる条文(民法・労働基準法・民事執行法)
- 民法505条2項相殺の禁止・制限の意思表示は、第三者が知り、または重大な過失で知らなかったときに限り、その第三者に対抗できる。
- 民法508条時効で消滅した債権でも、消滅以前に相殺に適するようになっていれば、相殺できる。
- 民法509条悪意による不法行為や、人の生命・身体の侵害による損害賠償の債務者は、相殺を対抗できない。
- 民法510条差押えを禁じられた債権を受働債権とする相殺は、対抗できない。
貸金の返済期限がまだ先のとき
貸主から相殺するには、自分の債権である貸金の弁済期が来ている必要があります。分割返済の途中で、まだ期限の来ていない残りの回数分まで相殺したい、というときは、期限の利益を失わせる条項があるか、実際に失ったといえる事実があるかを先に確かめます。期限の利益を失わせる条項の書き方と、1回の遅れで一括請求できるかの考え方は分割返済が1回遅れたら一括請求できるかで整理しています。
相殺を禁止・制限する取り決めがあるとき
契約書に相殺を禁止し、または制限する条項があれば、その当事者の間ではそれに従います。条文は、第三者に対しては、第三者がその意思表示を知り、または重大な過失によって知らなかったときに限って対抗できる、と定めています(民法505条2項)。継続的取引の基本契約書に相殺を制限する条項が入っていることは珍しくないので、貸金を別の契約で行った場合でも、基本契約の条項が及ぶ範囲を確認します。
差押え・債権の譲渡が先に行われていたとき
借主の報酬債権や売掛債権を、第三者が差し押さえていたり、譲り受けていたりすることがあります。差押えを受けた債権の支払義務者(貸主)は、差押え前に取得した債権(貸金)による相殺は差押債権者に対抗できますが、差押え後に取得した債権による相殺は、差押え前の原因に基づくものを除き対抗できません(民法511条)。債権の譲渡でも似た扱いがあり、債務者は、対抗要件具備時(譲渡の通知や承諾がされた時)より前に取得した債権による相殺は譲受人に対抗できますが、後に取得した債権は、前の原因に基づくものなどに限られます(民法469条)。差押えや譲渡の通知を受けた後で新たに貸した貸金を、その報酬や代金と相殺しようとすると、対抗できない可能性が高くなります。貸金債権自体を譲渡するときの相殺の問題は貸金債権の譲渡契約書の書き方、売掛債権の買取りは債権譲渡契約書・ファクタリング契約の書き方で扱っています。
連帯保証人や担保があるとき
貸金に連帯保証人や担保が付いている場合、相殺で貸金が減れば、保証人が負う範囲も残った額が基準になるのが一般的な考え方です。担保も、残った債権を担保することになります。保証人に何も知らせないまま相殺すると、保証人から見て「いくら残っているのか」が分からなくなるので、相殺の結果と残額を保証人にも書面で知らせておく取り決めが役に立ちます。反対に、借主が貸主に対して相殺できる債権を持っているときは、主たる債務者が債務を免れるべき限度で、保証人は貸主に対して履行を拒めます(民法457条3項)。連帯保証の契約書の考え方は連帯保証契約書・連帯保証人承諾書にあります。
相殺通知の書き方:特定すべき事項と、出し方
相殺は、当事者の一方から相手方に対する意思表示でします(民法506条1項)。相殺の意思表示は、相手方に届いた時から効力を生じる扱いです(民法97条1項)。口頭でも成立しますが、争いになったときに「いつ、何を、いくら相殺したのか」を示せるように、書面で出すのが実務です。
通知書に書く事項は、次のとおりです。まず、自働債権(貸金債権)を、貸付の日、契約の名称、元本・利息・遅延損害金の内訳で特定します。次に、受働債権(代金・報酬)を、発生原因、対象月、金額、支払期日で特定します。そのうえで、「対当額である○円の限度で相殺する」と明記し、相殺後の残額が何で、いくらになるかを書きます。相殺する日付(相殺適状の日)も書いておくと、遅延損害金の計算がぶれません。
書き方の例(一般的な例) 相殺通知の書き方
条件を付ける
理由相殺の意思表示には条件や期限を付けられない(民法506条1項)。条件付きにすると、相殺としての効果が生じないおそれがある。
債権の特定が足りない
理由どの債権が、いくら消えたのかが分からないと、残額の争いになる。複数の貸付けや報酬があるときは、充当の順序も書く(民法512条)。
条文例相殺通知書の本文(例)
1私(通知人)は、貴殿(被通知人)に対し、○年○月○日付金銭消費貸借契約に基づく貸金債権のうち、元本残高○円及びこれに対する○年○月○日までの約定利息○円(合計○円。以下「自働債権」という。)を有しています。
2私は、貴殿に対し、○年○月○日付業務委託契約に基づく○年○月分の委託料○円(支払期日○年○月○日。以下「受働債権」という。)の支払債務を負っています。
3私は、本書面により、自働債権と受働債権とを、その対当額である○円の限度で相殺します。この意思表示に、条件及び期限は付けていません。
4相殺後の残額は、自働債権が○円(元本○円、利息○円)、受働債権が0円となります。残った自働債権は、従前の約定に従ってお支払いください。
日付、金額、契約名は実際の記録から書き写す。差出人は債権を持つ本人の名義にする。書面を送るには、内容証明郵便などで届いた日が分かる方法を選ぶ。内容証明の書き方は「内容証明の書き方」のページで扱っている。
通知の方法は、書面でもメールでも、意思表示が相手方に到達したことを後から説明できればよい、というのが基本です。争いが予想されるときは、内容証明郵便に配達証明を付ける方法が使われます。書き方と注意点は内容証明の書き方:貸金返還請求・報酬の支払催告にまとめています。
相殺合意書の組み立て:法律の相殺と、合意による清算の違い
通知による相殺(法定の相殺)は、民法の要件を満たすことが前提です。これに対して、当事者の合意で債権債務を差し引く方法は、要件に縛られず、双方が納得する内容で組み立てることができます。次の五つの型に整理できます。
相殺・差引きの五つの型
- 1通知による相殺(法定の相殺)民法の要件を満たしたうえで、一方が相手方へ通知する。合意が得られないとき。要件・制限の確認が不可欠。
- 2合意による相殺(相殺合意書)双方が署名して、債権を特定し、差し引く日と残額を確定する。期限が来ていない債権を含めたいとき、争いを避けたいとき。
- 3相殺の予約(自動相殺条項)契約書に「一定の事由が生じたら相殺できる」と先に書いておく。継続的な取引。事前通知と異議の手続を組み合わせる。
- 4差引払い(報酬支払時の控除)毎月の支払の際に、返済分を差し引いて渡す。外注先への継続的報酬。明細の交付と、相手の同意が前提。
- 5三者間の相殺三者が互いに債権を持ち合うとき、全員の合意でまとめて消す。取引の輪が閉じているとき。一人でも同意しなければ成立しない。
合意書の最大の利点は、当事者の間で、相殺される債権の範囲、基準日、充当の順序、残額の支払方法を、あらかじめ確定できることです。期限が来ていない債権を含めて清算したいときにも使えます。ただし、合意による相殺が、差押えをした第三者や債権の譲受人などに対して通用するかは、別の問題です。当事者の間の約束が、第三者にそのまま及ぶわけではありません。
条文例相殺合意書の骨格(第1条・第2条の例)
1【債権債務の確認】甲は乙に対し、別表1記載の貸金債権(元本、利息及び遅延損害金の内訳は別表1のとおり。以下「甲の債権」という。)を有し、乙はその支払義務があることを認める。
2乙は甲に対し、別表2記載の報酬債権(以下「乙の債権」という。)を有し、甲はその支払義務があることを認める。
3【相殺】甲の債権と乙の債権は、○年○月○日(以下「相殺日」という。)をもって、対当額において相殺する。弁済期が相殺日に到来していない債権があるときは、その債権の債務者は、相殺日に期限の利益を放棄したものとして扱う。
4相殺により消滅する順序は、別表3のとおりとし、費用、利息及び遅延損害金、元本の順とする。相殺により消滅した部分には、相殺日以降、利息及び遅延損害金は生じない。
二つの債権を別表で特定し、「いつの時点で」「どの順序で」消えるかを書く。期限の利益の放棄を明記するのは、期限が来ていない債権を含めるため。
条文例相殺合意書の骨格(第3条〜第5条の例)
1【残額の支払】相殺後に残る債権の額は○円とし、その支払方法は次のとおりとする。(1)支払期日○年○月○日 (2)支払方法 銀行振込(振込手数料は支払う側の負担)。残額の支払が遅れたときは、従前の約定による遅延損害金が生じる。
2【保証・担保】乙の債務について連帯保証人(丙)がある場合、甲は、本合意書の内容と相殺後の残額を、丙に対し書面で通知する。保証債務及び担保は、相殺後に残る債権を担保するものとして存続する。
3【清算の範囲】甲と乙は、本合意書別表に記載した債権債務に限り、本合意書の内容で清算されることを確認する。別表に記載のない債権債務は、本合意書の対象に含まれない。
清算の範囲を「別表に掲げた債権債務に限る」と書くことで、合意が他の債権まで及ぶのを防ぐ。保証人への通知は、保証人が残額を把握するための取り決め。
継続的取引で、先に相殺の取り決めを入れておくとき
条文例貸金の返済と報酬の支払を結び付ける条項(例)
1甲が乙に別途貸し付けた金員(以下「貸付金」という。)の返済期日が経過しても返済されないとき、甲は、乙に支払うべき委託料の支払期日に、貸付金の残額(約定の利息及び遅延損害金を含む。)と、書面で通知したうえで、対当額で相殺することができる。
2前項の通知には、貸付金の元本残高、利息、遅延損害金の内訳と、相殺する委託料の対象月及び金額を記載する。
3乙は、通知を受けた日から7日以内に、書面又は電子メールで異議を述べることができる。異議が述べられた部分は、貸付金の額が確定するまで相殺しない。
4賃金その他法令により相殺が制限される債権については、第1項の相殺をしない。
通知の内容、異議の期間、争いのある部分を対象から外すこと、法令で制限される債権を除くことを一つの条にまとめた形。7日などの期間は取引の実態に合わせて決める。
よくある失敗と直し方:実務で見られる相殺条項の型
契約書や規約の点検では、相殺条項が「一方に有利なだけの書き方」になっている場面が繰り返し見られます。そのまま使うと、いざ相殺するときに、通知の効力、相殺額、時期をめぐって争いになりやすくなります。次の表は、よく見られる書き方と、整えた書き方の対照です。
書き方の例(一般的な例) 相殺条項の書き方
損害額を一方が決めて、報酬と相殺する
理由損害額を一方が決められると読める書き方は、運用の段階で争われやすい。法令で認められる範囲に限ることと、算定の根拠を示せることを書き、相殺の額に歯止めをかける。
弁済期の到来を問わない相殺
理由期限未到来の債権まで相殺できる書き方は、受注者の資金繰りに直接響く。確定した債権に限り、事前の通知と異議の機会を置く。
争いのある債権や再建手続中の債権を含む
理由争いのある損害賠償を理由に支払を止めると、損害が確定する前に資金が止まる。相殺の対象から外す場面を、条文として列挙しておく。
売った債権の相殺(債権譲渡・ファクタリング)
理由債権を買い取った側にとっては、売主が債務者と勝手に相殺すると、債権が消えてしまう。承諾なく相殺の合意をしてはならない、受け取った金は差し引かず全額引き渡す、という二つの手当てを置く。
ヒヤリングで確認することと、起きがちなこと
相殺の書面を作る前に、事業者や個人の貸主から聞き取っておきたい事項は、次の八問です。どれも、法律の要件や制限に当てはまるかを見分けるためのものです。
聞き取り票 相殺の前に確かめる八つの問い
- 貸金の残高は、元本・利息・遅延損害金それぞれいくらか。入金の記録と合っているか。通知書や合意書に内訳を載せないと、相手の認識との食い違いが相殺額の争いに直結する。
- 貸主が相手に払うお金は何か(代金、報酬、給与、返金、預り金)。金額と支払期日は。種類によって制限が違う。支払期日は、相殺適状と遅延損害金の起算に関わる。
- 相手は個人か法人か。従業員か、外注先か、取引先か。給与なら労働基準法、外注先ならフリーランス法の確認が必要になる。
- 相手の債権(代金・報酬)に、品質や納期をめぐる争いは残っていないか。争いのある債権を相殺の対象にすると、受働債権の額そのものが争いになる。
- 貸金に連帯保証人や担保はあるか。相殺の結果を保証人に知らせるか、担保が残額を担保するかを決めておくため。
- 相手の債権が、第三者に譲渡されたり、差し押さえられたりしていないか。通知や差押えの後に取得した債権では相殺を対抗できない場合がある(民法469条・511条)。
- 契約書や借用書に、相殺を禁止・制限する条項、または相殺の方法を定める条項はあるか。禁止・制限があれば、その当事者の間ではそれに従う(民法505条2項)。
- 相殺しても残る金額があるか。あれば、いつ、どう払うか。残額の支払日と方法を決めないと、次の遅れが生じたときの起点が曖昧になる。
相殺は、向かい合う債権の確認、制限の確認、到達の記録という順の作業です。通知で行うか、合意書で清算するかを選ぶ前に、上の問いを確かめておけば、相殺後の争いは減らせます。相殺後に残った金額の分割や、完済の確認の書き方は返済猶予の変更合意書と完済確認書で扱っています。
よくあるご質問
貸金の返済期限がまだ来ていなくても、報酬と相殺できますか。
貸主から相殺するには、自分の債権である貸金の弁済期が来ていることが必要です(民法505条1項)。期限が来ていないなら、分割払いで期限の利益を失わせる条項に当たる事実があるかを確かめます。借主から相殺するときは、貸金の期限前でも返すことができる(民法591条2項)ので、自分の報酬債権の弁済期が来ていれば、期限の利益を放棄して相殺できると説明されます。
「期日までに払わなければ相殺する」という通知は有効ですか。
相殺の意思表示には、条件も期限も付けることができません(民法506条1項)。条件付きの通知は、相殺としての効果が生じないおそれがあります。相殺の通知と、支払の催促の通知は別の書面にし、相殺通知は条件を付けずに、二つの債権と相殺額を特定して書きます。
従業員への貸金を、給与から差し引いてもよいですか。
賃金は、通貨で、直接、全額を払う原則があり(労働基準法24条1項)、前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金を相殺することは禁じられています(同法17条)。控除が許されるか、許されるとしてどのような手続が要るかは、労働関係の法令の問題で、貸付けの契約書の定めだけでは決められません。返済は口座への振込を基本にするのが無難です。
相殺の通知は、メールでもよいですか。
方式に決まりはなく、意思表示が相手方に到達した時から効力を生じます(民法97条1項)。メールでも成立しえますが、争いになったときに、いつ届いたかを説明できる必要があります。争いが予想されるときは、内容証明郵便に配達証明を付ける方法が使われます。
連帯保証人がいる貸金を、報酬と相殺したら、保証人はどうなりますか。
相殺で貸金が減れば、保証人が負う範囲も残った額が基準になるのが一般的な考え方です。保証人は、相殺の結果や残額が分からないと困るので、合意書に、結果と残額を保証人に書面で通知する取り決めを入れておくと整理しやすくなります。借主が貸主に対して相殺権を持つときは、主たる債務者が債務を免れるべき限度で、保証人は履行を拒めます(民法457条3項)。
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